永尾俊彦

大阪の泉南地域に石綿産業が興ったのは、明治時代末期。軍艦には保温などの目的で欠かせない素材となっていた。第2次大戦後は、基幹産業を縁の下で支えた。泉南地域には、零細な石綿関連の工場が林立した。若い働き手は、在日コリアンや同和地区、離島、へき地の出身者たち。

斜陽化した炭鉱から移った人もいた。高度成長期、マスクなどの保護措置も施さず時には、子守をしながら労働する。やがて、かつての社員や家族、近隣の人々が、肺を病み、相次ぎ命を失っていく。

「知ってた、できた、でもやらなかった」は被害者らが提訴した国家賠償請求訴訟の標語だった。1937年には、ある国の機関は、石綿が呼吸器に悪影響を及ぼすことを把握していた。国際的な規制の潮流もあって、日本が全ての石綿を使用禁止したのは、2004年だ。

裁判で、被害者や遺族は不作為の国に勝利した。しかし、石綿被害は数十年先まで、万単位の患者が生まれる恐れもある。産業の興隆が痛ましい犠牲を生む事があってはいけない。これは、大きな教訓である。

エンジンオイル、OEMの仲間の勉強塾より